自身の修行として座禅を始めて二年半が過ぎたころ、既に気負うことなく半世紀程度のワープができるようになっていた。桜の季節も終わりカエルの鳴き声が気になりかけたころ、水口は、まだ中堅どころとして町工場で働く古田の元に飛んでいた。水口にとって未成年の一人娘を残したままこの世を去った古田のことが気がかりだったのだ。〈健康道場〉でともに座禅を組んだ縁から古田の人生をもう少し実り多きものにしたいと心の底で願っていた。
夏日のような暑さと冬を名残惜しむかのような寒さを交互に迎えているこの時期に古田は騒々しい機械音の中で、額に汗をためながら一点に集中して作業を行っていた。
「古ちゃん。コンマ一マイクロの作業が寸分たがわずできるんや?」
同僚の山下が声をかける。
「いや、普通にしているだけやで」
古田が造作物から目を離さないで答えた。
「その普通が、おかしいやろ」
「なんで」
「そよかて、世の中には誤差っちゅうもんがあるやろ」
山下が自分の能力では辿り着けない神業の世界にいる古田の技能に理由を求めた。
「それを言われても、俺もたぶん山ちゃんと同じ感覚で機械に向き合っているだけやと思うで」
「なんで同じ感覚やねん! 普通は一〇〇マイクロメーター程度の誤差はでるもんや。古ちゃんは一マイクロの世界って。同じ機械を同じように眺めて、同じタイミングで手を動かしてなんでここまで差が出なあかんのや。おかしいやろ。ホンマに仕事するんが嫌になるわ」
山下が古田の才能を妬んでいる。古田はいつもの会話のために、微笑んで会話を聞き流している。
昼休みも近い時間のために、作業もひと段落していることから古田は山下を誘い、作業場を離れて、休憩所に向かった。懐の内ポケットから、マイルドセブンを取り出し、口に咥えて火をつけた。と、同時に山下に向けてマイルドセブンの箱を下から上にしゃくりあげて、タバコの加え口を出すと山下に向けて差し出した。山下は手刀を切りながらタバコを一本手に取り、口に咥えた。古田がすかさずライターで火をつけ、山下の咥えたタバコにも火を向ける。お互いに火が付いたところで、しめし合わせたように息を吸い込んだあと大きく煙を吐く。二人は無言の連帯感を確認していた。
その様子を目の当たりにしていた水口は
「古田、あかん、タバコをやめろ! もう、それ以上煙を吸うな!」
水口はありったけの声で叫ぶが、当然のことながら水口には届かない。
「くそっ、俺の姿を、俺の声を、奴は確認でけへんのか。頼む。古田、もう、タバコを止めてくれ。このままやとお前の未来には肺がんが待っているんや。高校生の娘を残して逝かなあかんなるんや」
水口が唾を吐きながら必死で叫んでも古田には届く気配もない。
水口は、古田の寿命を変えようと思う純粋な願いがむなしく空を舞う状況に苛まれていた。
そして、知らずと和尚に教えを乞っていた。
「和尚、やはり、人の運命は変えることはでけへんのでしょうか? 俺はただ純粋に古田の余命を伸ばしてやりたいだけやのに。そんな、些細なことも許されへんのやろか。古田の寿命が数年先延ばしになることが世の中にどの程度影響を及ぼすというんやろか? 和尚、教えを請いたい。古田を助けるためにどうしてやったらえんでっしゃろ。わいにできることはなんでっしゃろ。和尚、和尚、和尚・・・・・!」
水口は古田を何とか救いたい一心でありったけの願いを込めて目に見えぬ和尚に向かって懇願していた。
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